「制服まにあ」の独り言(5)

<99.06.13>

 制服は「着る人」あっての、制服!?

 前回のこのコーナーで、「制服は衣装至上主義」みたいなことを書いたくせに、舌の根も乾かぬうちに、前言撤回モードの因幡です☆

 やっぱり(衣装によっては)着る人を選ぶ…

 いや、身も蓋もない言い方で申し訳ありません。いやねぇ、先日、故あって富山方面に行く用事があって、そのとき、コアなマニアの間では有名な「あっぷるぐりむ」に寄ったんですよ。この店の制服は、「ピンク基調で、ストライプのエプロンとセーラー襟風のスカーフが可愛い、フレアスカートの制服」なんですが、ちょうど、平日の昼間の時間帯で、どうみても「子持ちで生活かかっているパートのおばさん」という方々が着ていらしたのです。
 いや、その手の発言が穏当でないことは、自分とてよく承知しています。なぜなら、因幡だって自信をもって「若い」といえる年齢ではありませんし、若い娘が多い職場では、アルバイトとしては雇っていただけない店もあるのが現実です。加齢は人類共通のテーマですし、明日は我が身のわけですから、それを口にすることは、あまり芳しくないのは、分かっています。分かっているんだけど…。
 でもね、でも、でもですよ! もし、アンミラに、40歳はゆうに越えているのではないかと思われるオバサンが、あのピンクのミニスカでバイトしていたら、どうします?(笑) 容姿の問題ではないと理屈ではわかっていても、でも、「あまりにも可愛い制服は、似合う人と似合わない人が出るなぁ」というのが、今回の発見でした。つまり、制服は「着る人」と「衣装」が融合して、制服となるということも、やはり認めざるを得ないというのがあります。

 しかし、働いていた彼女達の名誉のために申し上げますと、決してそれは、彼女達の容姿に著しく難があったとかそういう問題とも、またちょっと違うように思うのです。なぜなら、その日、ほとんどがオバサンだったとは言え、どうみても若い(推定20歳程度)娘も、バイトの中にはいたのです。でも、彼女もあまり似合っていなかった。つまり「制服は可愛かったものの、その場に居合わせた従業員の中に、着こなせている人は皆無だった」のです。
 以前より、因幡が別の場所で何度か発言している内容ですが、バニー衣装やチャイナ服が比較的優れている点として、「どんな年齢のどういう雰囲気の方が着ても、それなりに似合う」という点があります。また、セーラー服(学生服)は確かに年齢制限は入ってきてしまうかも知れませんが、それでも、いろいろ顔立ちや体型の人にもそれなりに似合うという特性があります。つまり、多くの人が同じ衣装を統一して着なければならない環境にある制服は、「誰が着てもそこそこ着こなせるデザイン」というところにも、けっこう重要な使命があるのではないかというような気がしたのです。
 恥ずかしながら、私自身、制服が好きといいながら、衣装のデザイン性(特に女の子らしく可愛いデザインかどうか)ばかりに気を取られて、多くの人に合わせるという制服本来の大事な使命については、二の次にして考えていた部分があります。噂によれば、あっぷるぐりむの制服は、「従業員がみんなで考えた理想の制服」とのことですが(あくまでも噂ですが)、素人が「可愛い制服を作りたい」という思いだけでデザインすると、こういう事象も起きてしまう可能性があるという意味では、大変に勉強になりました。

 あと、あっぷるぐりむの件でもうひとつ気になったことですが、「店内の内装」「メニュー」「制服」に、いまひとつ統一感がないという点です。これは、実は馬車道のときも感じていました。馬車道は確かに「明治浪漫」というテーマはなくはないのですが、メニューと「明治」は必ずしも合致していない雰囲気です。郊外型ファミレスの最近の特徴として、他店との差別化をはかるために何らかの「珍しい売り」こそ打ち出しているものの、それはあくまでも人目をひくための商売道具であって、全体としての店長のこだわりとか店としてのポリシーとか、そういった「色」が足りない傾向があるのかも知れません。

 制服が可愛い店を、こういう目で観察していること自体が、すでに「三位一体思想」になびいている証拠だと思います。いやはや、でも、制服さえ可愛ければ、他は手抜きでも何でも許されるということになると、「衣装至上主義」は、結果として、制服そのものの価値を衰退させてしまう考え方のような気がします(ということで、ポリシーを若干変更(笑))。
 極論すれば、アンミラの制服は、アンミラでウェイトレスが着ているという事実があってこその価値であり、仮に、アンミラが存在しないまま、あの服だけがどこかの衣装メーカーから発売されていたとしても、ここまでブームにはならなかったと思います。それどころか、パイレストランというバックボーンのないまま、ピンクやオレンジの胸寄せミニスカだけ一人歩きしていたら「この服、なんだか風俗店のコスチュームみたいで、嫌!」と、女の子達からは嫌われていたかも知れません(笑) だから、衣装だけで制服にはなり得ないというのも、これは、一理ありますね☆

 さて、話戻って、あっぷるぐりむです。この店の制服は、どこが「似合わない」要素になっているか。多分…ですが、スカート丈(あるいはエプロン丈)が半端なんだと思います。変な表現ですが、あっぷるぐりむの服は、いわばヴィドフランスタイプ、つまり、イラストで書くとバランスよく書けるけど、実物を見ると、衣装バランスが少し悪いという感じなんです。
 具体的な話を書きますと、ほぼ膝丈(あるいは、膝上5センチ)のフレアスカートのワンピースを普通の人が着こなすのって、実は、大変に難しいのです。フレアワンピなら、バランスとしては、思い切って膝下10センチにしてしまうか、あるいは、膝上10センチ以上です。しかし、ワンピースで膝上10センチにすると、前にかがんだとき背中側から布がひっぱられて裾が上がってパンチラになってしまうので、ミニスカにする場合は、アンミラにやブロパのように、腰スカートにするのが現実的でしょう。
 また、もし、ひざ丈程度というスカート丈を死守したいなら、エプロンの長さをうんと短めにする(小さいサロンエプロン風にする)か、あるいはぎりぎりまで長くとるか(ヴィド方式)、どちらかにすべきですね☆
 …などと、こんなところで意見を述べていたところで、どうしようもないんですが、おそらく、あっぷるぐりむとしては「うちの制服は素晴らしい」とか思っているはずなんで(笑)、外野がそんな意見を上申しても、うざったいだけでしょう(^^;) ともかく、私はそう感じたという、ただの独り言です。

 それにしても、うさぎハウスを始めてから、もうすぐ8年。昔は、「バニーちゃん、可愛いから着てみたい」程度の服飾知識だった私も、いろいろな業者を渡り歩き、失敗を繰り返したり、時には業者から「貴方の注文は、服飾技術のことを知らない素人発想だ」と諭されたりして、だいぶ、経験値をつみました。
 かつての私だったら、フレアスカートのワンビースのミニスカは制服に適さないということさえ、気付けなかったと思います。どうして、制服にレースを使うことが少ないかとか(クリーニングに弱い)、スカートよりワンピースが主流の理由はなぜかとか(サイズ合わせが楽)、色々、それぞれもっともな理由はあるのですが、それは、「制服を採用する店の都合」であって、見る側の欲求(笑)は、もっと、ここをこう可愛くすればいいのにとか、もっと貪欲ですよね…☆(^^;)
 そういうことに気付くようになってしまったのは、よかったのか悪かったのかは分かりません。しかし、どちらにしても、すでにずいぶん前から、無責任な客の視点で制服を流し見することは、私にはできなくなっていました。レストランで食事をしても、「あの制服、材質のせいで変なシワがよってしまっていてかわいそう」とか「あの服は、ここのデザインにミスがあるから、着る娘が着づらいだろうなぁ」とか、いらんことに気付いてしまうのです。落ち着いてゆったり食事をしていない私に、同行者は苦笑します。でも、わざと観察しているのではなく「気付いて」しまうのです。困った性分だと思います。
 ただでさえ、「見る側」と「着る側」の視点は違うのに、さらに最近は「作る側」「買う側」にまで思慮がいくようになってしまったせいで、ドツボるときがあります。「こういう制服、見る側としては作って欲しいけど、着る側はたまらないだろうなぁ」とか、「着る側としては、こういうの欲しいだろうけど、作る側は難しいだろうなぁ」とか、「店の都合としては、扱いの楽なこういうタイプにしたのがホンネだろうなぁ」とか(笑)というのが、ひとつの頭の中で錯綜して、うかつな結論が出せないことも多々あります。中途半端に、みんなの言い分や立場が分かっていると、間にいるものは、苦悩をしょいこむこともしょっちょう。着る側なら着る側、買う側なら買う側といった、一定の立場から「これは嫌」とか「これがいい」とか無責任に断言できる人が羨ましいと思うことも、(正直いって)ありますね☆(笑)
 だけど、そういうタイトな条件づくしの中にも、それなりに着地点があるのです。その狭い面積への着地に見事成功した服こそが、素晴らしい制服として長く君臨することになります。皆さんご存知の、アンミラなどは、「バイトの娘が着たがる」「お客が喜ぶ」「制作は比較的簡単」「生地は普通の合繊素材」という全てを満たしているからこそ、制服王なのです☆(逆に言えば、ブロパの制服は、可愛いには可愛いけどメンテが難しいという理由ですたれる可能性も高いと思います)
 もし、アンミラに「仕掛け人」がいるなら、この着地こそは、無上の快感でしょう。両者の折衷(別名ツボともいいます)へのチャレンジは、私のような中途半端な起用貧乏にとって、実は心地良い知的探求だったりもするわけです☆


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