☆精神世界とか宗教的なものとか…


 まず最初に明言しておきます。因幡は、あらゆる宗教に入信しておらず、また、特定の宗教や団体を勧める(あるいは否定する)目的でこのページを作っているものではありません。 ただ、いわゆる「精神世界」「ニューエイジ」「新興宗教」「オカルト」「自己開発セミナー」「ネットワークビジネス」などといわれている、よろず怪しい系の知人は多く、そういったものには、そこそこ興味もあります。自分としてはそのどれに対しても(多分おそらく)冷静に、客観視はしているけれども懐疑的ではないという程度の距離で普通に接触していると思うし、それらには、良い点もあり、悪い点もあって、一長一短だと思っています。
 とりあえず、いろいろ考えることは好きなんで、あれこれ首突っ込んだり、知人から聞いたり、勧誘されてみてきたり、お試しセミナーに参加してきたり、関連書物を読んで思ったりしたことを、ここで、いろいろフリートーク的に書いてみたいと思います。


うさぎハウスは宗教である!?(笑)(00.06.20)

 いきなり、初回から無茶なタイトルで始まりましたが、ぢつは、周囲に「新興宗教」にハマった人やら「ネットワークビジネス」に手を染めた人やらがいて、その人達を見れば見るほど、うさぎハウスのやり方と彼らに共通点があるなぁ…と苦笑するケースが多くなってきました。
 新興宗教系は、いくつか知っているのですが、今回は特に名前は出しません。ただ、それらに共通しているのは「幸せな未来が遠からずやってくる」「選ばれた人だけが、その世界に行ける」「やると幸せになって、人に広めると幸せになる」といった思想です。いわば、信じるものは救われるの世界ですね☆ で、そういう宗教の掲げる「幸せな未来」は、常識的な人が聞けば「本当にそんなことあるのかなぁ」とにわかには信じられないけれども、頑張って信じようとすれば全くありえないとは言えないかも知れない程度の、微妙に無理目の目標設定になっているんです。
 さて、そこで、うさぎハウスと比較してみましょう。うさぎハウスの目的(教義)は「明るく健全なバニー布教」です。なんか、今より、幸せになれそうなスローガンで、努力すれば世の中が少しはそういう方向に変わりそうな錯覚に陥りますよね?(笑) 何により困ったことに、現実に周囲は変わってきているし、はっきりしたものではなくても、なんとなく成果らしきものも出てしまったりすするから、余計に「もしや…!?」の期待が持ててしまったりするわけです。
 でも、頭の固い、いわゆる常識的といわれる人から見れば、「バニーはHで酒場にいて当たり前、何を今さら馬鹿なこと言っているんだか…。うまくいっているように見えるのは、調子の良いマスコミやら周囲に躍らされているだけ。結局何も変わっちゃいない。そう、君は彼らのピエロに過ぎない。そんな、お子様的な夢からは早く覚めるべきだと」と説諭されてしまいそうな、なにやら実現感がイマヒトツ乏しい目標でもあります。しかも、「理屈の上では」そういった一般人の言い分のほうが正当に見えたりするところがミソですね(笑) だいたい、どんなものごとも「常識」を持ち出せば、そちらのほうが理路整然としているかのような錯覚に陥らすことは簡単なんですよ。常識の前に、夢、宗教、思想といった精神世界は無力です。
 あ、ちょっと話がそれちゃいましたね…。ということで、「なれればいいな、でも普通だと無理っぽいな、でもでも、もしかして!?」ぐらいの妙な位置に終点をおいて、なにやら訳の分からないことをあれこれとやっているうさぎハウスというのは、なんだか新興宗教とけっこう似ているような気がしました(ぉぃぉぃ)。


幸せの青い鳥は、どこにいるのか…(00.06.20)

 因幡は、決して宗教自体は否定しない。だって、幸せに感じられなかった人が、ある宗教で幸せに感じられるなら、本人が幸せと思えているものにケチをつける必要はないですもの…☆
 でも、もし仮に、今「幸せ」と思えない人がいたとして、あるいは「今の自分を変えたい」と思っている人がいたとして、何かに頼れば幸せになれるのでは…とか、何かや誰かが変えてくれることを期待しているのだとしたら、そんな考えは捨てたほうがいいと思います。何かにすがって一時的に目先の幸せ(な錯覚)とか変化が味わえたとしても、今度は「いや、これは本物ではない」とか「高いお金を払って騙されているのでは?」とか、また猜疑心がわいたりして、同じことのような気がします。自分が選んで掴んだ「幸せ」でなければ、与えてもらえる幸せでは限界があるし…。
 自分を変えるきっかけとして、宗教でも自己開発セミナーでもなんでも、やってみたければやっていい。でも、結局、変わるのは自分だし、自分が何かピンとこなければ、変わらない。何かあるかも…とか期待して「自分の意志で」入信したりお金払ったりしておいて、後から「騙された」だの「あそこは悪徳だ」の言うのは、みっともないよね。そういう、受け身というか消費者的というか、逃げのきく位置から「享受できる幸せ」にすがろうとするから、なかなか焦燥感(?)から抜けられないんだと思います。
 よくある言葉だけど「自己責任」とでもいいますか、今の幸せも不幸せも、自分が生きてきた人生のその結果の上にあって。では、生きて来た道はどうしてその道になったのかといえば、全て自分が(無意識にしろ意識的にしろ)「自発的に」選んできたものだ、ということ。それを、正しく認識できるかどうかが、鍵なのではないでしょうか。
 青い鳥を誰かが運んでくれるとか、青い鳥は自分の近くではないどこかにいるとか思っている限りは、青い鳥は見えない。青い鳥は、必ず貴方の影のように、ついてきているんですね。なぜなら、人生の岐路はすべて「貴方」が「自発的」に選んでいるんですから…。


どうして、「手かざし」の人は、エネルギーの源の説明ができないの?(00.06.20)

 因幡の知人友人には、変なパワー(?)みたいなものを持っている人も何人かいます。因幡自体も、多少は他の人より感応性が高いので、何か感じたりすることがあります。
 で、その人達が良く言うのことに、こういう話があります。自分は、せっかくハンドパワー(みたいなもの?)を使えるけど、どういう力なのかまでは分からない。たまたま、街で手かざし系の人に声をかけられたりすると(冷やかしではなく本気で色々と話を聞きたいからこそ)、自分の力と貴方の力は同じなのかとか、その力の源は何なのかとか、自分の手かざしも受けてみてくれないかとか聞いてみるけど、そういう話をすると逃げられてしまう、と…(笑)
 そういえば、私も、手かざしの人に声かけられたとき、「ともかく、受けてみてください」といわれたので、「受けなくても、何か感じることはまず間違いないので、エネルギーの存在は疑っていませんし、奇跡だって起きても不思議でない程度に受け止めています。それよりも、私が知りたいのは、そのエネルギーの出所や使い方などですが、説明していただけますか?」と聞いても教えてくれなくって、ともかく、支部だか道場だかそういうところまで来てくださいという感じで話がラチあかないんです。いつも思うんだけど、宗教系で、個別訪問したり、末端で手をかざしている人とかは、自分のところの教義とか源とか、きちんと説明できない人が多すぎます。運営側も、よく分かっていない人を無責任に街頭に立たせないで欲しいです…。
 ま、誘われてそういうところにいってみたところで、ともかく病気が治ったとか、奇跡が起きたとか、ビリビリ感じるとか、凄い凄いばかりで、もっと大事で本質的なことは、やっぱりさっぱり分からないことが多いんですけど☆(笑)
 神秘も奇跡も病気直しも、何かのエネルギーが使える人なら出来て「当たり前」。問題なのは、病気が直ることではなくって、もっと別の次元、すなわちどうしてそういうエネルギーがあるのか、どうして使える人と使えない人がいるのか、そのエネルギーは本当は何に使うためにあるのかってところのように思うのですが…。


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